邪馬台国論争に終止符! 邪馬台国は徳之島だった!
『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の邪馬台国は、徳之島が有力という事で現地を視察し色々な実証をつかんできました。その後、竹取翁博物館に「邪馬台国論争に終止符! 邪馬台国は徳之島だった!」という特別展示をし館長自ら解説、「邪馬台国は徳之島だった!」という本(博物館のみで販売)も出版されています。
1.邪馬台国論争に終止符!
①『竹取物語』の不老不死薬と徐福伝説から邪馬台国を発見。物語に登場する宝貝と不老長寿薬から「徳之島」と推定! 魏志倭人伝の方位と距離など99%が一致。
②『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島。
2.邪馬台国は「徳之島」だった!
①『魏志倭人伝』に記す「南水行十日陸行一月」は、真ん中に「又」が無く「投馬国から南へ水行十日(+)陸行一月」。年中温暖「海南島」と同じ気候、裸足で入墨、長寿の島。大和は100パーセント当てはまりません。九州は50パーセントしか当てはまりません。
②伊仙町で発掘された弥生時代のシャーマン(卑弥呼「ノロ・ユタ」)墓は、①『魏志倭人伝』と同様、棺あるが外箱の蓋無しの土葬「巳葬」である。上面縄の聖地である邪馬台国の前方後円墳は百余歩あり、山は丹(赤土)ある。
『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の邪馬台国は、徳之島が有力という事で現地を視察し色々な実証をつかんできました。その後、竹取翁博物館に「邪馬台国論争に終止符! 邪馬台国は徳之島だった!」という特別展示をし館長自ら解説、「邪馬台国は徳之島だった!」という本(博物館のみで販売)も出版されています。
1.邪馬台国論争に終止符!
①『竹取物語』の不老不死薬と徐福伝説から邪馬台国を発見。物語に登場する宝貝と不老長寿薬から「徳之島」と推定! 魏志倭人伝の方位と距離など99%が一致。
②『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島。
2.邪馬台国は「徳之島」だった!
①『魏志倭人伝』に記す「南水行十日陸行一月」は、真ん中に「又」が無く「投馬国から南へ水行十日(+)陸行一月」。年中温暖「海南島」と同じ気候、裸足で入墨、長寿の島。大和は100パーセント当てはまりません。九州は50パーセントしか当てはまりません。
②伊仙町で発掘された弥生時代のシャーマン(卑弥呼「ノロ・ユタ」)墓は、①『魏志倭人伝』と同様、棺あるが外箱の蓋無しの土葬「巳葬」である。上面縄の聖地である邪馬台国の前方後円墳は百余歩あり、山は丹(赤土)ある。
③ 中国貨幣(宝貝)出土は徳之島との交易の証。中国の殷王朝時代から『竹取物語』の難題に出てくる「ツバクロの子安貝」が輸出され貨幣とされていた。
④戸森の舟の線刻画(鉄器で描いた神代文字)、千枚岩の不老不死薬、目に水晶をはめ込んだ徐福の坐像石は、徐福が紀元前260年ごろ最初に渡来し、その後400年後に邪馬台国・卑弥呼の王国を誕生させた。徐福又はその一行は、南西諸島を北上して九州・伊根・新宮・富士などに来ている。
■見学・取材等お問合せ『竹取翁博物館』館長 小泉芳孝。京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522
■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。
copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.
■見学・取材等お問合せ『竹取翁博物館』館長 小泉芳孝。京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522
■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。
copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.